みんなちがって、みんないい。その感覚を大事にできることの幸せと、デザインスプリント。
金曜ということで、テックでもデザインでもなんでもない、ライトなポエム記事を。
先日、コワーキングスペースでランチを食べながら、そんな話題になったのでポスト。
「道徳を学校で教えるって意味あるんすかね?」みたいな話題があり、「それは君の親がちゃんとした教育をしたからそう思んじゃない?」という返しをしてしまったわけですが、よくよく考えてみると、「学校の道徳」というフレーズ自体、僕には少し気持ちが悪いんですよね。
全部の人間に、同じ価値観を持たせることの危うさ
社会的多様性を失う原因になるんじゃないかなあと、ついつい思ってしまうのが違和感の原因だと思っています。
例えば、台風が直撃しました。そこで屋根が吹き飛ぶような大被害が発生しました。
となった時に、「大変だなあ」「かわいそうだなあ」「お手伝いできないかなあ」と、普通に思って良いのです。
でも、やっぱりそこには「よし、看板の営業かけよう」「建物補修の営業かけよう」「保険で直せますよ!って言いに行こう」という人がいたっていいと思うんです。
そこに対して、不謹慎だ!とかなんだかんだ言う人がいたっていいと思うんです。
ただまあ、生理的に受け付けないよなあ、その考え。という範囲はできるだけなくしていきたい。と考えています。
絶対的にこうだからこうなんだ!という概念が民主主義を破壊する
どんな凶悪犯のコメントであっても、どんなに取るに足らない発言であっても、一旦飲み込むということこそがディスカッションを生むのではないでしょうか。
多分、学校の〜というところがひっかかる
学校教育においても、前述の極論(といっても自主的に相当マイルドにしましたが)ほどではないけれど、人の意見は聞こうね!という教育はきっとされているでしょう。先生による差異があっても。
ただ、学校の〜というくだりになると、いわゆるいい子ちゃん教育スタイルの香りがしてしまう。
そりゃ当然、社会的道徳に大きく反するであろう思想(増えすぎた人類は抹殺しようぜ!みたいな。)の芽は摘み取らなければいけないんだけども。
画一的に、ものごとを進行するスタイルや、子どもの頃よくあった、挙手による多数決ですべてが決まるというのがあまり好きではないのです。
大人になると挙手による多数決だけではないじゃないですか。
どちらかというと、自然発生的な雰囲気多数決というか、誰かの政治的バイアスはあるかもしれないけど、なんとな〜く全体の方針が決まっていくといった流れ。
「みんなで」「全員で」ものごとを必ずしもやらなくてはいけないという前提がちょっと辛い。あ、僕が社会不適合なだけなのかもしれないけれど。
僕の場合幸いにも、そのあたり割と恵まれていて、話し合いながらゆるりといろいろな流れが決まることが多い分、少数派意見だったとしてもストレスが少ない環境に身を置いていられることが多いことは幸せです。
集団行動の基礎は学校で教わるのが理想
そもそも、家庭などなど含めて、すべての子どもが平等に数十人単位で過ごすのなんか学校くらいなもの(分校とかは・・・)なので、実践できる場で教わることは間違っていないよね。というのが個人的な意見なわけですが。
デザインスプリントは道徳的トレーニングにも良さそう
以前、OSSカフェで小島さん主催のデザインスプリントを見学したのですが、あれはいいトレーニングになりそうです。
短時間で、思考をまとめて、発表してのサイクルを繰り返し、一緒に意見をまとめていくという流れは、多数決主体というよりも、大きな流れを見る力が育つような気がします。
というか道徳的なことは、道徳の時間じゃなくて、別の時間に付随的に学ぶもののような気がするのです。
先日は、はじめてのハッカソンとして河村さんと小島さんが高校生向けにやったようで・・・。
こんな取り組みは凄くいいなあ、なんて思っております。
今度はデザインスプリント、参加してみようかなあと思うのでした。
あれ、いつのまにか学校の道徳が関係なくなっている気がする・・・。